病的な関数

病的な関数

つぎのような関数f(x)がある。
f(x)=x,(ただしxが有理数のとき)
f(x)=0,(ただしxが無理数のとき)

この関数の連続性について考える。

そのまえに、有理数無理数の稠密(ちゅうみつ)性について証明する。

有理数の稠密性について>
任意の実数a,bがあったとき、a<p<bを満たす有理数pが存在する。
証明)
1/(b-a)<N
を満たすようなNを設定すれば、
n/N(nは整数)
と表せる数は有理数であり、幅1/N<(b-a)ごとに等間隔に存在する。よって、このような数の中にはaより大きくbより小さな有理数が必ず存在する。(有理数の稠密性の証明終)

無理数の稠密性について>
任意の実数a,bがあったとき、a<q<bを満たす無理数qが存在する。

証明)
上で有理数の稠密性を証明してあるので、ある無理数r(例えば√2)に対して
r+有理数
という集合を作れば無理数の集合となり、且つ有理数は稠密であるから無理数全体も稠密集合となる。よって、任意の実数a,bがあったとき、a<q<bを満たす無理数qが存在する。(無理数の稠密性の証明終)

ここで、最初の問題に戻る。
ある無理数s(≠0)について、有理数の稠密性からsに収斂する有理数の無限級数列{Xn}が存在する。しかし、関数f(Xn)はXnが有理数だからf(Xn)=Xnである。またsは無理数だから関数f(s)=0である。よって、f(Xn)≠f(s)となり、fはsで連続でない。
今度はsが有理数の場合を考える。ある有理数s(≠0)について、無理数の稠密性からsに収斂する無理数の無限級数列{Yn}が存在する。しかし、関数f(Yn)=0であり、f(s)=sだから、f(Xn)≠f(s)となり、fはsで連続でない。
さいごに、s=0の場合を考える。このとき、任意のεにたいし|f(x)-f(0)|<εとなるようなxは、|x-0|<δ(=ε)となるようなxをとれば成立するから、fはx=0で連続である。

すると、関数f(x)はx≠0のいたるところで不連続であり、x=0でのみ連続となる。

関数の微小部分を考えてもまったく想像できないが、関数の連続の定義により、このような病的な関数が存在する。ご興味のある方は、調べてもらうと他にも病的な関数がたくさんある。人間の直感というものは狭いものだが論理によって新たな事実がわかり、それを吸収することで人間の直感の幅は広がっていく(と思う、たぶん。)

有理数の稠密性や、無理数の稠密性を証明した。
稠密とは俗にいえば、数直線上に隙間なくビッシリと数が並んでいることをいう。
有理数が稠密であるとは、数直線上に有理数がビッシリ隙間なく並んでいることをいう。
1/1000000とどんな小さな数でも分数で表現できるからだ。しかし、稠密であることと数直線上を有理数だけで表現できることとは意味が違う。穴がある。例えば√2が穴だ。有理数では表現できない。すべての数を表現できる集合は稠密ではなく「完備」という。

イコールの意味

自分の経験を顧み、物理・数学系の本を読み進めるのに大事なことを書いてみる。専門書はほとんどが英文で書かれているけど、高校のときに英語が苦手だったからといって心配することは全くない。専門書の英語は非常にロジカルで平明であり英文理解に苦しむことは皆無である。辞書もほぼ不要。
問題は数式の理解である。
数式は、不等号でなく等号で書かれた等式が大半以上を占める。だから等式の意味について書いてみる。

等式には大きく3つの種類がある。

まずは、恒等式
(A+B)^2=A^2+2AB+B^2、という等式を見ると、この等式はAとBがどのような値であろうといつでも成立する。つまり、この等式は何も新しいことを示しているものではない。左辺と右辺がいつでも成立する、というのが恒等式。ある関数を微分して等号でつないでどんどん計算していく式も恒等式である。左辺と右辺に変わりはない。

これに対して、方程式というのがある。
3x+2=4
これはいつでも成立するのではなく、ある特定のxのときに成立する等式である。つまり、方程式とは変数xのとる値に制限を与える式である。変数のとる値とか関数の形に制限を与えるのが方程式である。ある関数fの微分f'にある制限を与え、そのような関数fは何ですか?というのを微分方程式という。微分f'の方程式だから微分という修飾語を付けて微分方程式と呼んでいるだけだ。積分方程式というのもある。

最後は、定義式。
加速度αは速度の微分である、などの式。
α=dv/dt
これは、左辺のαを、右辺で定義しますよ、という式。

物理・数学系の本を読んでいると、とにかく数式がたくさん出てくる。
そのとき、この数式は恒等式なのかな、方程式なのかな、定義式なのかな、と自問自答し本のなかで迷子にならないようにするのが大切。こういう読み方は、なぜか誰も教えてくれない。
勉強したての学生も経験積んだ研究者もやってることは同じ。自然のごく一部しか知らない人類にとっては、学生も高名な学者も微差にすぎない。

理科離れとかバイオ系の高い人気とかの現代だけど、鳥肌立つほど興奮する物理・数学系に、また若い人たちが来てくれればいいなあと思う。

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相加・相乗平均

相加・相乗平均(数Ⅰ)

2つの正の数、AとBがある。

相加平均はわかる。平均だから足して2で割れば平均。

(A+B)/2

相乗平均ってなんだ?

AとBとは、共に「メートル」という長さの単位だとする。

すると、AxBの単位は(メートル)の2乗になる。

大きさを比較する場合、単位はそろってなくてはならない。
メートルと、メートルの2乗とは大きさの比較ができないのだ。
メートルとキログラムの数値の大きさの比較ができないのと同じ。ディメンジョン(次元)が違うからだ。

それで相乗平均は、メートルの2乗をメートルにするために、ABのルート√をとる。
メートルの2乗のルートをとると、メートルになり、大きさの比較ができるからだ。つまり相加平均のメートルの単位と≧を使って大小比較ができる。

そして、教わるのがこの式。
AとBが正の値のとき、
(A+B)/2≧√(AB)
等号成立はA=Bのとき。

証明は簡単。左辺の2乗から右辺の2乗を引いて、それが0以上であることを示せば良い。
(A^2+2AB+B^2)/4-AB
=(A^2-2AB+B^2)/4
=(A-B)^2/4≧0
等号成立はA=Bのとき。

AとBは正の数なら相加・相乗平均は成立するが、等号が成立するのはA=Bのときに限る。

例えば、A=2でB=4のとき、
(A+B)/2は3になるが、√(2・4)=2√2で、3≧2は成立するが、等号が成立する場合はない。

ちなみに、A≧Bの意味は、AがBより大きい、またはAとBが等しい、のどちらか一方が成立すれば良い、という意味で、Aが必ずBと同じになるときがあって且つそれよりも大きい、という意味ではないので混乱してはいけない。

カウボーイの馬が飲んでる最中に逃げないワケ

古い西部劇には、馬に乗ったカウボーイが酒場にやってきて、馬をつなぎとめるのにロープを柵にクルクルっと回して一杯やるというシーンがあった。結ぶでもなく、ただクルクルっとやるだけ。
あれで本当に馬がつなぎとめられるのか、考える。

(この問題、ヤフーの質問で見かけたりするけど、いきなり「オイラーのベルト理論」とかいう高尚な結果から解答が始まってたから、ちゃんと基礎から導いてみる。)

ロープと柵との静止摩擦係数をμとし、図に示したようにロープの微小部分に着目する。
微小部分は、角度θの点で微小角dθに相当する部分である。

B点での張力をT、C点での張力をT’、ロープの微小部分での摩擦力をμdRとする。
(最大静止摩擦力は、静止摩擦係数×垂直抗力)

馬がロープを引っ張って、まさにロープが滑りだす寸前での力のつり合いの式を、ロープのC点で考えると、つぎのようになる。

T’=T+μdR  ①

ロープの微小部分が中心方向から受ける垂直抗力dRは、

dR=T’sin(dθ)≒T’dθ  ②
(ここで、角度が小さい時の近似式、sin(dθ)≒dθを用いた。)

すると、①はつぎのように変形できる。

T’-T=μdR

T’-T=dTと置き換えて、

dT=μdR

②を用いると、

dT=T’μdθ

両辺が1次の微分だから、T’の2次以上の微小量を無視すれば、T’はTと置き換えられるから、

dT=Tμdθ

dT/T=μdθ

θ=0でT0、θ=θ1でT1として、両辺を定積分すれば、

log(T1/T0)=μθ1

よって、T1/T0=exp(μθ1)  ③

(③式を、オイラーのベルト理論というそうです)

実際に数値を入れてみる。

ロープを2回巻いたとすると、θ1は4π。摩擦係数μを0.5とすると、μθ1が6.3。

すると③式からT1/T0はおよそ500くらい。つまり、A点から垂れているロープの重さの500倍くらいの力に耐えることができる。馬の体重が300kgくらいだとすれば、A点から垂れているロープの重さが0.6kgもあれば、ロープを2回転半くらい巻いておけば、十分に馬をつなぎとめておくことができる。

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心霊写真って、そもそも変だろ?

幽霊を考えた。
※写真の黄色矢印を見ていただきたい。

心霊ものはマジで怖い。テレビ番組の特集とか、あれは視聴者が怖くなるように演出してるんだろうけど、なぜか怖い。幽霊って、いるのかいないのかわからないけど、太古の昔から国を問わずにその存在は今でも物議をかもしている。

見てください、これが幽霊です、と幽霊を連れてきて見せてくれた人は誰もいない。もしそれができてたのなら、幽霊はとっくに解明され怖くもなんともない存在になってたかもしれない。トラやライオンやクマは人間にとって恐ろしい存在だけれど、それらを人間は熟知しているから、突然の恐怖に襲われずに済んでいる。幽霊と猛獣の決定的な違いがここにある。知らないものへの怖れが幽霊への怖れだと思う。

幽霊をいるとしよう。
幽霊とはこれこれこういうものであるなど定義はないのだけれど何もわからないけれどいるとしよう。そしてどこまで考えられるかやってみよう。

心霊写真というのがある。見るからに恐ろしい。いないはずの人が映っていたり腕が半分消えてたり。ぞぞぞ~、である。

ところで、写真ってなんだ?と考える。写真とは、物体に光があたり、その反射波にフィルムの感光板が反応し反射波を記録するものである。昔の写真はフィルムだった。フィルムに反射波の色と強度が記録された。いまはデジカメである。やってることは同じだ。反射波の記録の仕方が違うだけである。

写真の話は続く。写真に写るためには光を反射しなくてはならない。物質は光を反射する。だから写真に映る。心霊写真が撮れた、という。つまり、霊は光を反射しているのである。光を反射するのは物質である。さらに細かいことを言えば、物質を構成している電子が光を反射しているのである。
つまり、幽霊も物質からできているはずである。

人の目は光の波長が200nmから400nmくらいまでのものにしか反応できない。可視光という。可視光の波長外の赤外線や紫外線は見えないのである。さらにマイクロ波やX線はγ線を見ることはできない。
なぜか霊は可視光の領域の光を反射し心霊写真として写真に映る。しかも心霊写真の輪郭がくっきりしてるから、気体や流体などではなく常温で形を保っている物質である。

つまり、心霊写真に映る幽霊とは普通の物質と同じである。そうでなければ写真に映りようがないのである。幽霊だから特別ということはない。自然法則は物質も幽霊もすべてにおいて平等に成立するからである。

という幽霊考察でした。

そうそう、写真の黄色矢印の手も誰の手か知らないけど、明らかに手ですよ。

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太陽炉とエントロピー

太陽炉とエントロピー

静岡や神奈川の人なら行ったことがあるかもしれないけど、伊豆に韮山反射炉という太陽炉がある。

ウィキから引用
1840年天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官江川英龍は海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議した。韮山反射炉は、1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定された。」

要は、太陽光を集光した高温を利用して鉄など溶解し、鉄砲などを作るのに用いた工業施設、だそうだ。

だれもが子供の頃にレンズで太陽光を1点に集光する実験をしたと思う。
太陽炉というのは、それを大がかりにしただけのものだ。

ここで疑問が生じる。

温度を上げるためには、たくさんのレンズやたくさんの鏡を使って、なるべくたくさんの太陽の光(おおざっぱな表現ですみません)を集めれば好きなだけ高い温度が得られるのではないだろうか?という疑問。

答えはNOなのだ。仮に、東京ドームくらい大きいレンズを使って太陽光を集光しても、温度の上限がある。

上限は、太陽の表面温度6000℃だ。

東京ドームも超えて東京都1つくらいの大きなレンズを作っても6000℃を超えることはできない。

例えを変えよう。
冷蔵庫にある卵をゆで卵にしたい。冷えた卵を温めるために、41℃のお風呂のお湯を卵にかける。ゆで卵にしたいからどんどん風呂の湯をかける。
直感でわかるように、これを繰り返しても卵の温度は風呂の温度41℃よりも高くはならず、ゆで卵にはならない。

6000℃の光をどんなに集光しても6000℃を超えた温度にはならないのである。

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質量欠損と結合エネルギー

質量欠損と結合エネルギー

高校物理で習う原子の分野に、質量欠損と結合エネルギーがある。
例えば、こんな問題がある。

原子番号Zで質量数Aの原子核の質量がMのとき、結合エネルギーΔEはいくらか。
ただし、陽子の質量をmp、中性子の質量をmnとする。

これは、核子をすべてバラバラにした静止エネルギーから結合している原子核の静止エネルギーを引き算して、

ΔE={Zmp+(A-Z)mn-M}c^2

と書ける。とか。

相対論で導かれる質量とエネルギーは等価であるという結論、E=mc^2を使って計算する問題。

そして、教科書には図など載っていて、載ってる例も原子核しか見たことない。
下の絵は、2個の重水素(陽子1個と中性子1個が結合したもの)とヘリウムの原子核(2個の陽子と2個の中性子が結合して1つの原子核になったもの)をてんびんに乗せると、バラバラにした2個の重水素のほうが重いというのを説明した図である。

こういうのを見ると、「質量欠損と結合エネルギー」というのは原子核の分野に特有のことかのように思えてしまうけど、そうではない。

何らかの力で結合している系は、すべて質量欠損しており、その質量欠損にc^2を掛けたものが結合エネルギーになる。

原子核は核力という強い力で相互作用している系。

では、例えば水素原子。これは陽子1個と電子1個が電磁気力で相互作用している系。これも、陽子1個と電子1個にバラバラにしたほうが質量が大きい。

もっとマクロな系。地球と月。地球と月は重力で相互作用して結合している系である。これも、地球と月をバラバラに、つまり地球と月を無限遠まで遠ざけた場合の質量のほうが大きい。

相対論のエネルギーと質量の等価性は「原子核に限る」のような制限は一切ない。すべてに当てはまる法則である。

逆に、相対論はそもそも宇宙の時空がどうなっているかというスケールの大きな話であったにもかかわらず、その理論の結果が原子核の結合エネルギーというミクロな世界まで規定しているということに驚くべきなのだ。

ではなぜ原子核のところで質量欠損のハナシが出てくるかというと、強い力は文字どおり強い力であって、質量欠損がその系の大きさに比べて顕著に目立つから。
ちなみに「強い力」というのは専門用語。さらにちなみに「弱い力」という専門用語もある(弱い力はベータ崩壊に関係した力)。

地球と月の質量欠損を計算してみよう。
月と地球を無限遠まで遠ざけるに必要な仕事が、まさに質量欠損である。
それは、無限遠をゼロとしたときの地球と月の結合エネルギー、つまりポテンシャルエネルギーに等しい。

ΔE=GMm/rで、M、m、G、r、はそれぞれ地球質量、月質量、万有引力定数、月と地球の距離である。実際数字を入れて、それを光速度cの2乗で割って、どれだけ質量が大きくなるか電卓で計算すると、10の12乗キログラム程度になる。月の質量が10の22乗程度だから、10桁も小さい値だが、それでも車1億台くらいの質量が増える。

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